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慈光通信 第241号

2022.10.14

生命の医学と農法を求めて Ⅰ

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

【この原稿は、1977年12月LIFE SCIENCEに掲載されたものです。】

 

 

 

生かされ、生かさんと努力し、そしてまた生かされる。
奪わずして与えんとし、殺さずして生かさんとする。

 

 

日本の現状

 

膨大な費用をかけて医学は発達し、医療施設は完備された。にもかかわらず、病人は増える一方である。ことに、癌、白血病、慢性肝臓腎臓疾患、心臓血管系疾患、糖尿病等々、いわゆる退行性疾患や膠原病、エリテマトーデス等々、得体のしれぬ奇病の続発、重症身体障害児、知的障害児、奇形児の増加、骨折、虫歯の多発、世界最低に堕ちた日本人の体力等々、日本民族がその生命力を失って根底から腐ってゆくのが感じられる。平均寿命の延長も決して正しい意味の延長ではなくて、明治を生きてきた頑丈な老人や、数少なく生まれてくる乳児が抗生物質や種々の保護施設に守られて死なずにいるためのものである。

 

 

生命の医学

 

昭和22年、私が某県立病院に勤務していた時のことである。恵まれた家庭の一人娘である16歳の少女が、急性急性扁桃腺炎でしばしば私の外来を訪れた。彼女はいつも当時霊薬として騒がれた米国製ペニシリンを持参してきて、他の人よりもずっと早く治った。私はペニシリンの偉効に驚嘆し、近代医学の偉大さに打たれた。少女は時々同じ病気で私の外来を訪れ、毎回ペニシリンですぐ治った。その少女が昭和23年夏、葡萄状球菌による肺血症で死亡してしまったのである。両親の悲しみの中で私は茫然としていた。ふとこの時、私は現代医学の欠点に気がついた―。
屍体の分析と動物実験(これは自然の健康な動物でなく、またその実験も自然にはない特殊条件下で行われることが多い)をもとにしてできた近代医学には、「生命力」という事実および「大自然の中での生態学的存在」という事実が見落とされているということ、そして、病気を病気という時点のみで唯物的、分析的に見ることは正しくなくて、生活との連関に於いて生命現象として生態学的に見るべきである、こんなことに気付いたのである。正しい生活様式が守られて健康長寿であった無医村に、道路が出来て新しい生活様式が入ってくると、まもなくその村には病気や夭折が多発した実例は枚挙にいとまがない…。
そのとき私は、次のような例えを考えた。火事を起こってしまった火事という時点でのみ捉えるとき、それは極めて複雑であり、かつその処理に非常な手数を要し、しかも結果は好ましいものではない。しかし、火事を火元と関連して考え、火元という時点で捉えるとはなはだ簡単で、かつその処理も容易である。また、火事には消防車が必要である。しかし、いくら消防車を強力にしても火の用心が行われなければ火事は続発し、町はついに消防車の水で壊されてしまうだろう。同じように、生活を正しくせず薬のみに頼って病気という結果だけを治していたら、病気は次々と続発し、ついに体は薬のために壊れてしまうだろう。火事を克服するのは金のかかる消防車でなくて、ただの火の用心であるごとく、病気をなくするのは高価な薬ではなくて、ただの正しい生活だと。

(以下、次号に続く)

 

 

 

そのレモン、安全ですか?

 

 

今季のレモンが始まりました。まだ青いレモンの若々しい香りと酸味は、今の時期だけのお楽しみです。
ひと昔前まで色味を添える脇役だったレモンですが、数年前からレモン味のアルコール飲の流行や、塩レモンなどのレモンを主役にしたレシピが増えたことで、年々需要が増えています。現在、国内で流通しているレモンは、ほとんどがアメリカやチリなど、海外からの輸入品で、国産レモンはわずか10%ほどしかありません。
ポストハーベスト農薬、という言葉をご存知でしょうか。これは「収穫後にかける農薬」のことで、国内で生産量の少ない農産物を、腐ったりカビが生えたりせずに海外から輸入するために使用される防カビ剤や防虫剤のことです。スーパーで販売されているレモンはツヤツヤとして輝いていますが、その輝きこそがポストハーベスト農薬によるものです。ポストハーベスト農薬は、通常の農薬と比較すると消費者の手元に届く直前に散布されるため、より濃度の高い農薬を摂取することになり、とても危険です。また、これらは販売時に表示が義務付けられており、よく見られるのは以下の5種類です。

 

OPP(オルトフェニルフェノール)防カビ剤 発がん性、肝臓障害を誘発する
DP(ジフェニール)防カビ剤 肝臓、膀胱の障害を引き起こすことがある
イマザリル 防カビ剤 作用が強い、落ちにくい
TBZ(チアベンタゾール) 防カビ剤 遺伝子への影響、発がん性
2.4-D 除草剤(枯葉剤)レモンのヘタが腐らないようにするワックス 肝毒性、生殖毒性

 

輸出される国の港で、コンテナで大量に運びこまれたレモンは、まずラインに載せられた後、2.4-Dをスプレーされます。その後、イマザリル、OPPのシャワーをくぐり、TBZもスプレー、その後乾燥させて箱に詰めて完了です。大量の防カビ剤が、何重にも噴霧され、コーティングされているのです。
平成30年、北海道消費者協会にて、かんきつ類の残留農薬と防カビ剤についてのテストが行われました。アメリカ産レモンを水洗いし、果皮、および果肉への残留農薬を調べたものです。その結果、果皮と全果(へたと種以外)において、防カビ剤と農薬(アゾキシストロビン)が検出されました。特に果皮にかなり多く含まれており、水洗いしても農薬が残留していることが実証されています。また、数値は低いものの、果肉にも2種の防カビ剤が残留しています。(一般社団法人北海道消費者協会HPより抜粋)
1品目だけで見た時に、厚生労働省の定める残留農薬の基準値の範囲であったとしても、農薬を使用した野菜、食品添加物が蔓延する世の中で、複数になればなるほどこれらは確実に私たちの体を蝕んでいきます。また、ポストハーベスト農薬はレモンだけではなく、ミカン、バナナ、ジャガイモ、米、大豆、小麦などの輸入作物にはほとんど使用されています。
皮のまま、生で使用することの多いレモン、是非安全なものをお選び下さい。

 

 

 

農場便り 10月

 

日本列島を包み込んでいた地獄のような猛暑も、太平洋高気圧の勢力が弱まり、朝夕過ごしやすい気候となった。とは言え、日中は30℃越え、それに加えてにわか雨に高湿度の日が続き、畑の表土も乾く間もなく、常に湿った状態となっている。しかし、今年はあまりの暑さにいつもの年に比べると蚊が少なく、イライラが少ない夏を過ごす事が出来た。仕事の行き帰りに見る田んぼの風景は、早生種を栽培している田では稲は黄金色に染まり、早くも稲刈りが始まる。空にはのんびり赤トンボが舞う。
8月下旬、実の成りも少なくなってきたきゅうりの収穫をしている時、恐れを知らない大きなアブが体に止まる。何度も振り払うが、アブは一度付くとしつこく、何度もチャレンジを繰り返す。「仏の顔も三度まで」どころか何十回にもなり、ついに体に止まったアブにそっと指を近づけ、「天誅!」とばかりにデコピンをお見舞いする。アブに的中し吹っ飛ぶが、頑丈なアブは羽音を立て遠くの空へと退散する。「ざまあみろ!」とこの年になってもまだまだ人間のできていない私の夏であった。
畑仕事を終え管理室へ戻り、部屋の電気をつける。古い蛍光灯は一息も二息もついてから部屋に光を放つ。農業日誌に一日の作業をしたため、ついでに隅っこに少しの反省も書き加える。大きな羽音がいやでも耳に入る。昼の暑さが夕方の山風にさらわれ、涼しくなった空気を部屋の中へ入れようと全開にした窓から暴走族のような羽音をたて、大きなカナブンが飛び込んできた。カナブンは狂ったかのように蛍光灯に体当たりを繰り返し、挙句の果てには床に落ちる。それでも懲りずにさらに部屋の壁や窓ガラスにも挑み、最後には脳振盪を起こしたのかじっと動かなくなる。仕方なしに手で掴み窓から草むらへ「ポイ」。虫は明かりを求め乱舞、人は金を求め乱舞する。
汗だくの上着を新しいシャツに着替え、日誌を書いている間も油断をしているとアブが背中に止まり、太い針で「ブスリ」と柔肌にひと突き。その瞬間、暗くなった山の農場に耕人の悲鳴が響き渡る。
この夏、力強く成長を続け食卓を賑わせてくれたきゅうりも9月上旬の台風の風に煽られ、そこへ気温の低下もあり、今はもう黄色く変色した大きな葉だけが垂れ下がり、間もなくその生命を終えようとしている。水と肥料の散布、そしてツルの誘引、1日2回の収穫、とこの3か月間毎日顔を合わせない日がなかったきゅうり。引き際にあたふたする人間とは違い、植物の最期は静かに静かに去ってゆく。最後の収穫を終えた時、「お疲れ様、ありがとう」と声をかけお別れをする。
農場で目に入る光景は美しいものばかりではない。時には目を覆いたくなるような場にも出くわす。生きていく過程での食物連鎖、弱いものが強いものに淘汰されるのが日常である。夕刻、収穫を終えきゅうりで一杯になったコンテナを担ぎ、低い草の中を歩く。その途中、セミの声と羽音がやたらと賑やかに聞こえる。草の中を見回すと大きなカマキリが鋭いカマでセミを捕らえ、今まさにセミの命を取ろうとしている。逃げようともがくセミ、逃がしてはならぬと鋭いカマに全力を注ぐカマキリ、セミとカマキリの格闘が続く。「セミを助けるか、しかしカマキリも生きるために必死である」、と思案が続く。それからの私の行動は想像にお任せするとして…。
お盆が過ぎ数日が経った。少しではあるが、気温が下がってきた。農場の苗場では色々な種類の冬野菜の小苗たちが圃場への出番を待つ。すでに早生の苗は畑に定植され、苗場には冬用の野菜だけがトレイで育つ。気候の変化をいち早く感じ取り、動き始めるのが8月5日、猛暑の中に畑に定植したセロリである。定植後のお盆の頃には少雨ではあるがよく夕立があり、水やりも少し手抜きが出来た。15㎝の大きさで定植された苗は厳しい環境の中でじっと耐え、成長点の若葉も動くことはなかった。前年は高温と乾燥で思うようなセロリを収穫することが出来ず残念な思いをしたため、本年は気を引き締め、マメに管理を行う。その甲斐あって9月に入り一気に成長を始めた。ここで、今までならホッと息を抜くところであるが、本年セロリ栽培の鬼と化した耕人は、自身と共にセロリにもはっぱをかけ、以前のような太くたくましいセロリを、と日々前向きに取り組む。
他の作物は8月20日に播種をした大根と一週間遅れで播種をした小松菜が、まだ元気いっぱいの害虫から守るべく掛けられた防虫ネットの中で育つ。大根は発芽率がよく、除草と共に間引きを行う。一方、小松菜は播種後、7割程度しか発芽しなかった。それは暑さのせいにしておくことにする。9月に入ると葉物は下の畑に次々に播種をする。
苗場で待機していたキャベツや白菜の苗は圃場へと次々に定植をした。第一弾は厳しい天候に配慮し、出来るだけ大きな苗に育ててから畑へと、気温が下がれば小苗のままでの定植となる。苗を育てる土も有機認証の土を使用する。セロリも含め根切り虫などの害虫が手ぐすねを引いて畑で待っている。台風にもまだまだ注意しなければならない時期の中、十五夜お月様だけはニコニコ顔で大地を照らす。
7月中旬から8月上旬まで雨が少なく、ぐったりと夏バテを起こしているのは私ではなく里芋である。傘ほどもある大きな葉は、強い日射しに焼かれ脱水状態に陥る。耕人はというと、滝のように流れ落ちる汗に身体は水分を欲し、水をガブ飲みするが流れる汗には追い付かず、その代償として、夜中太ももに痙攣が走る。ベッドの上は生き地獄となる。冷えた泡の立つ麦の水は役には立たない事を身をもって知る。
日照りによって水路を流れる清水も日増しに流れが少なくなり、里芋畑全体に流し入れることが難しくなってきた。8月上旬夕方、空には毎日のように黒雲が流れて来るが、雨らしい雨が畑には届かず、東の空へと流れ去ってしまう。一過性の雨だけでは水路の水が少し増すと、皆が他人には目もくれず我先にと田に水を引き入れる。まさに我田引水の世界である。セミもバテバテの中、来年用の堆肥が運び込まれ、堆肥場に堆肥の山が現れる。来春に向けて今から準備をする。この暑い中でも堆肥からは発酵の湯気が上がる。
そんな中、晩秋から冬用にと手をかけ7月初旬やっと終えた白ネギの除草、一か月後に見に行くと、この暑さがエネルギーとなり、白ネギの代わりに雑草がはびこっているではないか。もうすでに秋冬用作物の作業が始まり、止めるわけにはいかない、「さあどうするか」このピンチが秋の始まりとなった。
堆肥を播き、きれいに整地された畑に真っ直ぐな畝を立てる。数日後、次々に小さな苗の定植を行い、頭からたっぷりの水をかけ、ネットですっぽり覆い一丁上がり、となる。彼岸花が田の畔で咲く中、農作業に励む。以前は害虫の食害はあるものの十分収穫はさせていただいた。しかし、ここ10年、目に見えて自然環境が変わった。特に前倒しで作付けを行う作物は今まで通りの栽培法では見るも無残な姿となってしまう。「彼岸の種播き」と昔の人は言ったが、通年必要とする葉菜は少し播く時期が遅く、少しでも早くと無理をして播種をする。そこでネットを利用し、多くの害虫の攻撃から守る。少し涼しくなってくると虫害からも解放され、安定した栽培をすることができる。自然の摂理からすれば適地適作を守るのが正しい農と言えるのであるが、そうもいっていられないのが現状である。暑い中、50mのネットを畝の上に渡したトンネルの支柱の上にバサッと掛け、風で飛ばされないよう、また地表からの虫の侵入を防ぐため足元に土を掛けてゆく。早生種をより早く収穫する、となると今はこの方法がベストと考えている。高温のためきつい作業となり、途中で何度も鍬を止め、息を整えて作業を進める。それでもネットの中には、どこから湧いてくるのか悠々と美味しそうに葉を食べる不届きものがいる。
月日は流れ、日中はまだまだ高温ではあるが流れる汗はイグアスの滝から赤目四十八滝ほどへと変わった。例年であれば秋の訪れと共に食卓にはサンマが姿を現すが、今年はその姿を見ずに終えるのであろうか。人為的な地球環境の悪化はすべてを狂わせてしまう。益虫の数が減り、害虫と言われる虫がやたらと増え、目に留まるようになった。人間世界で善人よりも悪人がはびこるように。一般的な農法では害虫を抑えるため年々農薬の使用量が増える。その害は人類の生命を蝕む。これらの化学物質に人類はいつまで耐えることが出来るのであろうか。
雑草は秋の風をいち早く感じ、実を結ぶ。たわわに実る種を見てこれが作物であればと幼子も考えないようなことを考えてしまう。いつの間にか女郎蜘蛛が大きく育ち、大空に向け大きく糸を張り巡らせ、中央でジッと獲物を待つ。注意散漫で歩いていると大きな顔が蜘蛛の巣に掛る。皮膚に絡む糸の感触は最悪で、そのまま前に進んでしまうのが素人の行動、私たちプロはギアをバックに入れ、そっと後ろに下がる。そうすれば蜘蛛の巣を壊すこともなく顔に掛った糸も元通りになる。中島みゆきは縦の糸、横の糸と人生を楽しく歌うが、クモの糸は自らが生きるための極悪非道の道具である。芥川龍之介氏の作品に「蜘蛛の糸」がある。これは皆様ご存知のように、悪人が蜘蛛に施した小さな善により、お釈迦様が地獄へ一筋の蜘蛛の糸を垂らすが、悪人は自分だけが助かろうとする悪しき心を持ったため、蜘蛛の糸が切れ、また地獄へ落ちてしまうという話である。これが私であったなら、「一本のクモの糸にしがみ付くが、重量オーバーで糸が切れる」となるところである。今年こそはダイエットの秋にと毎年変わらぬ思いが脳を駆け巡る。世の全ての美味なるものに群がる悪しきものの世界に落ちぬよう。
ススキの穂が秋風に揺れる。大自然の中働かせていただくことへの感謝を忘れぬよう精進する。

農場に持参するマグカップのコーヒーがアイスからホットに変わる農場より