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慈光通信 第154号

2008.4.1

生命を守る正しい農法の追求 5

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

【この原稿は、昭和47年8月20日 財団法人協同組合経営研究所主催 第2回夏期大学における梁瀬義亮前理事長の講演録です。】

 

 

生体における欠乏と毒物の害

 

 

この欠乏と毒物という、二つの要素について、考えてみたいと思います。まず欠乏について考えますと、二つに分けることができます。一つは、食物の材料の組み合わせ方法がまずいために、欠乏がおこってくる場合、二番目は、食品材料そのものに欠点がある場合、この二つが考えられます。
まず第一に、材料の組み合わせについて申し上げます。現代の栄養学については、私も深くこれを信じていたわけなんです。フォイトやルーブナーの説も、医学部で教えていただき、栄養のなかで、カロリー、蛋白、脂肪、含水炭素の問題、ビタミンの問題、ミネラルの問題等々、深く信じていたのです。
ところが私は、患者さんに必ず食生活の傾向をききながら、臨床をやらせていただいてきたわけなんです。実際にきちっと表をとってやってみますと、どうも、こういう食物をとったら健康なんだ、病気にならないんだという、その栄養学で教えられたことが、実際とうまく合わない。むしろ、かえって栄養学で軽蔑されるような生活をしている人のほうが、病気が少ない例が多いことに気がついたんです。
私は、一万枚のカルテを目標にやり、その後もずっとその傾向を見続けておりますので、おそらく、いまでは三万、四万になっているだろうと思うんです。随分たくさんの患者さんをみますが、必ず問い合わせるんです。約二十五年の間、患者さんには、ずっと、その人の食生活の傾向をきいてしらべてきています。最初は昭和二十三年から二十七年までの間に、一万枚のカルテをアトランダムにとったのを、かなり詳しく統計をとっていったんですが、それで気がついたのは、一番はじめに申したことなんです。
栄養に関しても、現在の栄養学がすすめているような分析方法では、たくさんの必要とされる要素が無視されるということに気づいてきたわけです。
これはどういうことかと申しますと、現在みなさま、栄養というものを考えられる場合には、カロリーということについて必ず考えられると思います。それから蛋白質の問題、脂肪の問題、炭水化物の問題、それにたくさんの種類のビタミンの問題、ミネラルの問題など、こういうことが出てまいります。ところが、最初の原始的な栄養学では、カロリーと蛋白質、脂肪、含水炭素ぐらいが、栄養の対象でした。そのうちにビタミンが出てき、ミネラルが大切だということが分かってきたわけで、こういうふうに変わってきました。
しかしながら、では現在分かっているたくさんのビタミンを全部整えたミネラル入総合ビタミン剤をととのえて、いわゆる町のインテリお母さんがやっておられるようなことをしてみて、うまくいくかというと、そうはいきません。この他に実際は必要なんだが分析表に出てこない。いわゆる未知のファクターが、たくさんあることが考えられます。分析する事によっては、正しいものが出てこないことが考えられる。
実例を申し上げますと、カロリーもその他の成分も、全部完全であるように思われるのももを食べている子どもが随分弱くて仕方がない。そんな子に、岡山県倉敷市の遠藤仁郎先生がやっておられるような青汁療法(※ 脚注)ですね。あれをほどこしますと、たちまち元気になる。だから青汁の中には、ビタミンとか鉱物質を離れた、未知の要素が入っている事は確かなんです。それをやると、ぐんぐん元気になっていく例がたくさんあります。
(※ 有機栽培の菜葉をすりつぶして、グリーンのジュースを絞り、患者に飲ませる療法 詳しくは「もっと緑を!」参照)

(以下、次号に続く)

 

 

昨年暮れから今年初頭の農薬入り中国製冷凍ギョーザの事件で、日本の消費者は騒然となりました。「こんなにも中国産の食品が出回っていたのか」と誰もが驚き、又、日本の食糧自給率がわずか40%にも満たないことを、多くの国民が知るチャンスともなりました。「食の安全」と「十分な食糧の確保」は国民全員の逼迫した願いです。この願いを実現するために、私たち消費者には、今、何が出来るのでしょうか?
昨年開催した「慈光会の集い」で講演して頂いた槌田先生が、朝日新聞のコラムで、日本の農業の未来を語っておられました。是非ご一読頂いてご参考にして頂ければ幸いです。日本産の農産物を購入することが、そのまま日本の農業を支えることに直結する、ということが分かりやすく述べられています。

 

 

農業 米びつを守るのは消費者
槌田 劭(つちだ たかし)
(NPO法人「使い捨て時代を考える会」前理事長)

 

 

日本の農業は老衰寸前だ。40%という食料自給率を持ち出すまでもなく、コメ作りの現場を歩いてみれば、このことはすぐ分かる。担い手の主力は70歳代や60歳代後半。先祖伝来の土地と環境を守り、周りの人にうまいコメを食べさせたいという熱意で現場に踏みとどまってが、もう限界である。生産性を上げるどころか、水路など集落機能を維持することさえ困難になりつつある。
とどめを刺そうとしているのが、自由貿易協定(FTA)だ。米韓FTAの合意を受け、産業界を中心に「日本も乗り遅れるな」という声が強まっている。私は戦後の食糧難と飢えを経験した一人として、命を支える食べ物を自国でまかなえない状態には恐怖を感じるのだが、多くの経済人は違うらしい。
農業というのは、思い通りにならない自然の中で作物を育てる「いのち」の営みだ。工業製品のように技術革新で生産性を大幅に上げることは不可能だ。土地の形状に制約がある日本では、いかに大規模化を進めようとしても生産性では米国などに対抗できない。工業製品を売るための取引材料として農産物貿易を自由化すれば、日本の農村は壊滅するだろう。
振り返ってみると、農村の戦後史というのは都市のサブシステムにおとしめられ、農業が商工業の論理に絡め取られていく過程であったといえる。1961年には農業基本法を制定してもうかる農業を目指したが、農業従事者と都市労働者の所得格差を埋められなかった。ヒモ付きの補助金と減反政策は、カネと引き換えに農家の自立と誇りを根こそぎ奪っていった。
99年には農業基本法に代わって食料・農業・農村基本法が制定されたが、今年度から特定の品目を一定以上の規模で生産する農家だけを支援し、小規模農家を切り捨てる新制度が導入されるなど、効率化や経済性など商工業の論理を追求するという姿勢は変わっていない。
消費者としての都市住民も安さを求め、農家を悲しませてきた。このまま安さだけを追い求めれば日本の農業は滅びる。外国産品に頼ると国を危うくする。国内でコメを作っていても、93年の凶作によるコメ騒動のような事態が起きた。マネーゲームの対象にもなりうる輸入食料に、私たちの食を依存する危険は認識しておくべきだ。
そうした道を選ばず、あくまで日本の農業を守るというのであれば、消費者は生産者が「作り続けられる」価格で農作物を買い取り、生産農家に協力するほかないのではないか。
私たちは73年に京都で「使い捨て時代を考える会」を設立し、安全な有機農業の拡大などを通じ、農村の生産者と都市の消費者を結びつける提携・協力活動に取り組んできた。06年からは、農業後継者の育成支援や余剰米の有効活用、不足時の備蓄などに充てるため、生産者と消費者がコメ1?の販売・購入に当たり、それぞれ20円を寄付してもらう「縁故米基金」も創設した。作り手と食べる側が共同しあくまで日本の農業を守っていくためだ。
商業の論理とカネの呪縛にとらわれる限り、農業問題の出口は見出せない。米びつをまもることは、農家だけではなく、都市の消費者の課題であることを認識してほしい。

 

 

(35年生まれ。京都精華大非常勤講師。専門は生活環境論、環境文明論。著書に「共生共貧・21世紀を生きる道」など)

 

 

山口さんからのお便りを読んで―野生生物との共存を―
有機農法で美味しくて安全なりんごを生産している岩手県の協力農家、山口さんから、毎年沢山のファックスを頂いています。りんごの作柄や出荷時期等、販売所との間に多くの連絡事項があるからですが、そのたびに、山口さんは、ひとこと、みちのくの便りを書き綴ってくれています。その今期のお便りの中に次のような一文があり、とても考えさせられてしまいました。

 

 

『すばらしい青空が広がっています。
この秋、きのこは不作ですが栗は豊作です。そのため、食前、食後は栗の皮むきに追われています。熊も山が豊作のため里に下りてきませんので電気の入らない牧柵が邪魔になる状態です。云々・・・・』

 

 

昨年度の山口さんのお便りは、次のようなものでした。

 

 

『さて、熊はわが地区ではもう檻に6頭も入っています。後、何頭いるかわかりません。捕らえた熊は殆どが殺されるのですが、トウガラシスプレーをかけて奥山に放してやった熊も、2日後には元のところに戻ってくるということが発信機でわかっています。おいしい物の味を知ってしまった熊はもう奥山に帰れない、ということでしょうか・・・云々』

 

 

このお便りを読むと、今年度と昨年度との大変なちがいに驚かされます。昨年は熊の被害を防ぐため、りんご果樹園を取り囲む牧柵(電気を通して、野生生物が柵内に入らないようにしたもの)の通電は絶対必要だったと聞きました。今年のように山が豊作なら、熊は里に下りてこないのですね。慈光通信141号でご紹介した来栖(くるす)さんという方の「野生生物との共存の方法」=「山の針葉樹を実のなる木(来栖さんの場合はカチ栗)に植え替えて、野生生物のえさが自生するように工夫する事」が、期せずして身近な山口さんの地方でも今年の作柄ゆえ、実現した事になるのでしょうか?山口さんの地方では、まだ、山に実のなる木が残されているのですね。

 

 

山を本来の山の植生に返すこと―広葉樹、落葉樹、針葉樹、常緑樹、低潅木等様々な種類の木が共生している森に戻すこと―これが現在問題になっている「野生生物から受ける農産物の被害」を無くしてゆく根本的な対策であることを、山口さんのお手紙からも、しみじみと感じました。熊を殺したり、猿を脅したり、柵を作ったりしなくてよい解決方法のあることを、多くの人に知っていただくためにも、野生生物と共存できる道のあることを、再確認しておきたいと思います。
次の機会には「日本くま森協会」の素晴らしい活動をご紹介いたします。森と共に生きてゆきたい人々、小さな力をつなげてゆきましょう。

 

 

農場見学者を迎えて

 

慈光会直営農場には今まで多くの農場見学の来訪者がありました。ここ最近では農作業の都合上、一般の方の個人的な見学はお断りしていましたが、3月、農場見学希望の1本の電話がありました。お話を伺うと、立教大学で教鞭を執り、ゼミでは有機農業の重要性を教え、年に何度か学生と有機農家を訪れ実習を行っている、というお話でした。今回の見学の目的は、「日本の有機農業の基本を自分自身の目で再確認し、今後も学生に広く伝えたい」という事で、見学をお受けする事にしました。
当会を理解していただくため、趣旨を説明し、実践地を見学して頂きました。先ず、実際に堆肥を目で見、手で触れ、においを嗅ぐ(完熟堆肥には嫌な臭いはない)事から始まりました。堆肥によって痩せ地がフカフカの耕作地に変わっていく事、正しい肥沃な土地で作った作物と一般の作物との違い、を伝え総ては自然から与えられ、自然の摂理に従うことの重要性、人間至上の発想から生まれた農法の誤り等、前理事長の教えを事細かに伝えました。3名の来訪者は熱心に質問をされ、「今まで色々な所を訪ねましたが、こんな経験は初めてです。早速学生たちに伝えたいと思います。」と喜んで下さいました。
最後に記念資料室に案内し、この会は特別な人のための会ではなく、この社会で暮らす総ての人のためにある、という事を伝えお別れしました。これからの若い人達がこの運動を理解し、実践してくれることを心より願っています。

 

 

農場便り 4月

 

三月中旬、周りの梅林の花が咲き春風蕩駘ののどかさ、小鳥は自身の存在を示すかのように美しい声でさえずる。3月5日に鶯の初鳴を聞き、啓蟄を迎えた。農場では冬作の後を片付け、春夏作の準備へと作業を進める。トラクターは力強い排気音を響かせ、堆肥でフカフカになった土を、冬の間に育ったハコベやフグリと共に切り刻みながら起こし進む。前方に大きなフグリの株が近づくも止まることなくアクセルを踏み込みパワーを上げる。あと僅かな所で、葉っぱの上の虫の姿が目に飛び込んできた。クラッチを切り、ギアはニュートラルに。トラクターから降り、虫に目をやる。そこには越冬したキリギリスの成虫が、春の陽を浴び気持ちよさそうに昼寝をしている。昼寝・・・というのは私的見地であり、キリギリスは人生を、いや虫生を考えているのであろうか。無暗に生命を奪うことは当会の信念から外れる。そっと捕まえ安全なところに放す。が、昨年大切に育てていた作物を食害した事実は脳裏より消えておらず、沸々と恨みが湧き上がってくる。それと同時に幼少の頃両親に買ってもらって読んだイソップ物語「アリとキリギリス」を思い出す。日々快楽に耽っていたキリギリスは、秋が過ぎ冬になると寒さに震え、コツコツと地道に働き続けたアリは、その哀れなキリギリスを横目に見ながら貯えた食糧で暖かく冬を過す。ところが、今目にしているキリギリスは色艶良く力がみなぎっている。これも人類が作り出した地球温暖化の影響であろうか。イソップがこのキリギリスの姿を目にしたならば目が点…というところであろうか。今、日本全ての考え方がこのキリギリスに成りつつある。
太古の時代より受け継がれてきた農業を軽視し、安楽な工業中心の経済の美酒に酔いしれた日本は、今、食糧の殆どを海外に依存し、額に汗して働くことが少なくなった。戦後約60年でそのつけが回ってきた。安全性に於いても例外ではなく、食の安全と農業の重要性を唱え続けてきた当会にとっては、「来る時が来た」と思わざるを得ない。過去にも社会全体が食糧不足による混乱に陥った経験を持つわが国、絶対的な食糧不足は人々を悲惨な状況に陥れる。産業革命以来、工業中心であったイギリスも危機を感じ、政策を改め70%以上の自給率を誇るようになった。又、フランスは世界有数の農業大国であり、輸出国でもある。食糧自給率35%の日本は今や崖っぷちに立たされている。しかし今なら間に合う、未来の人々のため間に合わせなければならない。一人一人が目覚め、国家が全力を挙げ工業国から平和で正しい農業国へと政策を変換しなければ明るい未来は無いであろう。
今回は春の香り、「葉ごぼう」を紹介させていただく。

 

 

ごぼうは、中国から渡来して平安時代には薬用として利用された。春をよぶ野菜「葉ごぼう」は、特有の香りと歯ざわり、心地よいほろ苦さを持つ季節野菜で、食卓に春を運んでくれる。元来、ごぼうは薬草として伝えられたというだけあり、食物繊維、ビタミン類、カルシウム、鉄分がたっぷり含まれている。さらに、葉ごぼうには、ビタミンCが普通のごぼうの12倍も含まれており、みずみずしい軸と根は、炒め煮、サラダ、炊き込みご飯などに、葉はごま和えや煮びたしにするなど根から葉っぱまで残すことなく食べることが出来る。

 

 

春の夕べ、忙しくなった畑仕事の疲れもあるのだろうか、何とも言えない気だるさを感じる。沈む夕日がぼんやりと西の空に浮かぶ。先日、日本の宇宙ステーションを積み込んだスペースシャトルが、アメリカのNASAから打上げられ無事帰還した。テレビでは多くの関係者の喜ぶ姿が放映された。「きぼう」と命名された日本の有人宇宙施設はこれからの宇宙開発の基地になるそうである。「宇宙に希望を」という事ならば、もはや地球にはこの先希望は無いのであろうか。それとも希望を持てないと学者は考えているのであろうか。地球上のあらゆる資源を喰い尽くし他の惑星へ、とまるで人類は白アリと同じような発想ではないか。人類が初めて月面に降り立った時、アームストロング船長のメッセージが送られてきた。「私にとってはただの一歩であるが、人類にとっては大いなる一歩である」と。その一歩は本当に正しい一歩であったのであろうか。銀河系に於いて最も美しく尊い生命を育んでくれる地球、目先の快楽を求め走り狂う現代社会の果ては総てが枯渇し、キリギリスのように哀れな姿になるのであろうか。物語では、哀れなキリギリスがアリに物乞いをするもアリは頑なに断る。西洋的な厳しさで終わるイソップ物語であるが、東洋的な物語にするならば、暖かい部屋で哀れなキリギリスに食糧を分け与え皆が幸せに暮らす、という物語になるのであろうか。私の願いとすれば、是非こうあって欲しいものである。
冬の間結露で曇った心のレンズを綺麗に磨き上げ、この美しい春の自然を体一杯に取り込んでいただきたい。

 

 

 

春、忙しさにアリの手も借りたい農場より