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慈光通信 第245号

2023.6.14

生命の医学と農法を求めて Ⅴ

 

前理事長・医師 梁瀬義亮

【この原稿は、1977年12月LIFE SCIENCEに掲載されたものです。】

 

 

生かされ、生かさんと努力し、そしてまた生かされる。
奪わずして与えんとし、殺さずして生かさんとする。

 

 

 

「生命の農法」のこころ

 

近代農法(死の農法)と「生命の農法」は、その自然観および農業にたいする考え方に大きな差がある。近代農法では自然は単なる「物」にすぎない。これにたいして「生命の農法」では、「自然」とは人間を越えた叡智と能力と愛の実在であって、人間を含めて数限りない生命の養い主で、昔の人がお天道さまと言った意味である。また、近代農法では農作業とは農作物を「つくる」作業とみなす。これにたいして「生命の農法」では、農作業は「いただく」作法であり、あるいは人間ではとうていつくることのできないその偉大な合成作業への万一の「お手伝い」である。いまでも古老は、「ことしはお米を四石いただいた」「二石しかよういただけなかった」と言う。これが「生命の農法」のこころである。六十歳以下の人は「とった」「とれなかった」と言う。これが近代農法の考え方である。ここに世界観的な大きな差が見られる。たとえ「無農薬有機農法」のテクニックを習得しても、この心のない人は「生命の農法」の実行者になれないことを数多く経験している。

 

 

生の文明のために

 

近代文明、それは近代人の智恵と努力の結晶である。そしてそれは工業部門において大成功し、すばらしい物質文明を生んだ。しかし、生命の関与する部門では失敗している。工業は公害を生んで生命を脅かし、医学はいくら進んでも病人と奇病が増え、農学はその進歩にもかかわらず農作物が病虫害の多発でできなくなってきた。政治経済も成功せず、核戦争や経済不安、食糧問題は深刻で、ついに人類滅亡が叫ばれるようになってきた。近代人の努力の結晶をして、かくも悲劇的な結果に陥らしめた原因は何であろうか。
私は思う。それは近代文明の基礎になっている近代思想そのものの欠点であることを。
「人間至上主義」「唯物論」「自他断絶・自我中心的考え方」、これが近代思想の特徴である。
「人間至上」という傲慢な独断は自然観を誤らしめ、「唯物論」は「生命という事実」を無視せしめ、さらに「自他断絶・自己中心的考え方」は生態学的存在という事実および愛を見失わせる……。人間を越えた叡智と能力と愛の実在(大自然や神仏)の信仰、謙虚な自己反省による、生かされているということの認識と感動、いっさいの生あるものへの―いな、生なきものにたいしてすらもの―愛と畏敬、これは古今東西を問わず多くの偉大と言われる人々の叫びである。
「大自然とその生態系によって生かされている人間」という事実を、いま一度感動をもって振り返ろうではないか。人間を、いっさいの生命を、感謝と懐かしさをもって見直そうではないか。
近代思想のみを基礎にして「殺すこと」「奪うこと」という発想のうえに立ったがゆえに「死の文明」となった近代文明を「生の文明」に転換せしめるためには、「生かされ、生かさんと努力し、そしてまた生かされる」「奪わずして与えんとし」「殺さずして生かさんとする」という発想に立ち返るのが唯一の方法と考えるのである。具体的には、宗教が正しい真の姿でこの文明の指導原理として再導入されることを措いて他に方法はないと信ずる。現今の各宗教教団の大反省と大奮起を望んでやんない。
「公害は科学的テクニックによって解決されない。公害を克服するものは科学でなくて宗教である」―かつてテレビで聞いた米国の一公害学者の言葉が、いまも耳にひびいてくる。

【完】

〈やなせ ぎりょう〉
開業医。(1920-1993) 奈良県五條市の仏教学者の家に生まれる。幼いころから家で教わった仏教的世界観と、学校で教育される化学的世界観のギャップに悩み、より深く仏教を知るために六高の理科から京大医学部へ進んだという。昭和二十七年から同市で開業。その後、農業人口の多いこの市でたくさんの農薬中毒患者に接し、その原因が、当時、日本中で大量に使用されていた農薬パラチオン(ホリドール)にあると指摘、昭和三十六年には「農薬の害について」というパンフレットを自費出版する。レーチェル・カーソンが『サイレント・スプリング』を発表する一年前のことであった。
氏が主宰する有機農業をすすめる会「慈光会」のこと、農業研究会、仏教研究会のこと、そして開業医としての氏の超人的な活動ぶりについては、有吉佐和子著『複合汚染』にくわしい。ちなみに有吉氏は同書の中で、氏を〈昭和の華岡青洲〉とたたえている。

 (LIFE SCIENCEあとがきより)

 

 

 

日焼け対策は万全ですか?

 

 

じめじめした梅雨の季節がやってきました。曇っている日は日焼けしない、と安心していませんか。肌にダメージを与える紫外線は、曇りの日でも地表に届いています。地表に降り注ぐ紫外線の量は、快晴の日を100%とすると、曇りの日は50~70%になります。
地表に届く紫外線はUV-A(紫外線A波)とUV-B(紫外線B波)の2種類に分けられます。UV-Aは波長が長く、雲や窓ガラスをすり抜けてしまうため、曇りの日でもしっかり降り注いでいます。そして肌の奥にまで侵入してコラーゲンを破壊し、シミやシワなどの肌の老化を引き起こすといわれています。またもう一方のUV-Bはエネルギーが強く、日焼けしてすぐに肌が赤くなったり、水ぶくれが起きる原因になります。浴びすぎると皮膚がんの原因にもなりかねないと言われています。
曇った日にもう一つ注意が必要なのは、散乱光です。雲に紫外線が当たると、光が屈折して散乱します。晴れている日は太陽からそのまま紫外線が真っ直ぐ降りてきますが、雲があると散乱光になり様々な角度から肌に光が当たります。紫外線の量が増えるわけではありませんが、曇りの日ほど思わぬ日焼けをしてしまうということになります。このように紫外線が肌に与えるダメージは大きく分ければ2つ。皮膚がんなどのリスクが高まるという健康上の問題と、肌の老化を進行させるという美容上の問題です。紫外線=シミと考える方も多いかもしれませんが、シミだけではなく、たるみ、シワなど見た目の老化はほとんど紫外線によって進行します。お腹やお尻など隠れているところはすべすべしているのに、顔や手はシワが気になる・・という方はいませんか?これは紫外線に当たりやすいため老化しやすいということなのです。
また、最近「昔はこんなに日焼けが気にならなかったのに…」という嘆きをよく耳にします。では、今と昔とでは紫外線の量はどう変化しているのでしょう?
気象庁の発表によると1990年の紫外線の観測開始以降10年あたり+4.1%の増加率(つくばで測定)となっています。そして世界的なオゾン層破壊に伴う有害紫外線の増加による皮膚がんや白内障など、人の健康への影響が懸念されています。昔と今とは紫外線量に大きな差があり、やるべき対策も全く異なるという事になります。
紫外線を受けてもその直後の自覚症状は日焼けする程度で、大きな問題が起こるわけではありません。大きな問題が起こるのは20年~30年後です。今の段階では、現在の紫外線量がどれだけの問題を起こすかという事は分かりません。そこで、未来を見据えての紫外線対策が大切になります。
自分自身で出来る身近な紫外線対策というと、外に出るときの帽子や長袖の衣服の着用、日焼け止めの塗布などがあります。その中の日焼け止めについてはちょっと注意が必要です。
日焼け止めを選ぶときに気を付けたい成分は「紫外線吸収剤」です。これは、肌表面で紫外線を吸収して化学反応を起こし、肌内部へ紫外線が入るのを防ぐ役割をします。ブロック効果は高いのですが、紫外線を吸収するときに肌にチクチクした刺激を感じたり、赤み、湿疹が現れる場合もあります。悪化すると身体のタンパク質と結びついてアレルギーを引き起こすこともあります。日焼け止めに使われている主な紫外線吸収剤は3つです。
t-ブチルメトキシジベンゾイルメタン
オキシベンゾン-3
皮膚から体内への吸収率が格段に高く、疫学調査で妊娠中の母親の尿中の濃度が高いと、生まれる子供の体重や頭の大きさに影響が出ることが確認されている。
メトキシケイヒ酸エチルへキシル
女性ホルモンだけではなく、男性ホルモンや甲状腺ホルモンも攪乱することが示唆されている。2011年のラットを使った実験では、妊娠中と授乳期での母親への暴露によって、母親と生まれたオスの子供で、甲状腺ホルモンの減少が確認されている。オスの子供の男性ホルモンが少なく、前立腺と精巣サイズが小さくなり精子数の減少も確認され、脳の発達への影響も指摘されている。
また、この成分は皮膚から浸透し体内へ吸収されることもわかっており、授乳中の母親を対象にしたスイスの調査では、母乳の78%から検出されたとのこと。小さな子供は体が小さい分濃度が濃くなるので要注意。

これらの成分は日焼け止めだけではなく、日焼け止め成分が入った化粧下地などにも含まれています。また、日焼け止めが必要なのは大人だけではありません。10代後半までに一生に浴びる紫外線の半分近くを浴びるため、大人になってからでは遅く、幼少期の紫外線対策はとても大切です。衣服などで防ぐことは大切ですが、それでも防ぎきれない時には、適切に日焼け止めを使うことが必要です。小さな子供の肌に日焼け止めを塗ることに抵抗を感じる方もいると思いますが、最近では安全性を考慮した日焼け止めも作られています。よく成分を確認して安全なものを選択し、紫外線対策を身近なものにしましょう。

 

 

 

農場便り 6月

 

 

山のいたるところで、白い花を咲かせるうの花が目に映る。心地よい春の風は一変し、湿度の高い空気が山々を、そして当園をも包み込んだ。五月には大空高く泳ぐこいのぼり共々猛暑に見舞われ、下旬には入梅となった。木々の葉はしっとりと濡れ、より緑が濃くなってゆく。当会の山の農場の倉庫では、毎年恒例のイタチの子育てが始まった。2匹の赤ちゃんイタチがピピッと声を上げ、外壁と部屋の内張りの間を一日中ガサゴソと動き回る。親イタチはこの場所がお気に入りのようで、毎年この時期になると2匹の子供を産み育てる。元気よく動き回る子供たちの音を耳にする度、今、国会で取り沙汰されている少子化問題を思い浮かべる。対症療法のようなやり方で問題が全て解決できると思っているかのような審議の内容に馬鹿々々しさを感じる。今の世は、私の幼い頃のことを思えば、贅沢で恵まれ、これだけ社会が進歩していてもいるにも関わらず、不平不満に満ちている。貧しくとも平和で、幸せであることに喜びを感じて生きた親たちのことを、今一度振り返ってみてはいかがであろうか。前理事長は「人間足るを知ることが人生に於いて大切なことである」とよく口にしていた。当時はそれを聞く度、胸が締め付けられる思いのする耕人であった。
山ではイタチ、我が家の庭では、ヤマボウシの高所にある粗末な巣でキジ鳩の抱卵が始まった。雨の日も風の日も一心に卵を抱く親鳥の姿、これも毎年恒例で、しばらくすると2階の窓からは2羽の産毛で覆われたヒナを見ることが出来る。餌を運ぶ親をじっと待ち、戻ると賑やかにささやかな御飯を食べる。まさに貧しくとも明るく平和な我が家である。
2匹のイタチの子が巣立つ頃、貯水池の周りの木々の間から産卵のため山奥から集まってきたモリアオガエルの声が聞こえてくる。水槽の周りは、モリアオガエルが愛をささやく声が賑やかに響き渡る。大自然の生き物は、その生き方を誰に教わるでもなく、生きる術を身に着け、自然から過度に奪うこともなく、共存している。我々現代人も大自然からの恵みにもっと感謝し、謙虚に受け入れなければならないのではないだろうか。と、耕人の戯言はここまでにし、最近の農場の様子をお届けする。
春先、痛恨のミスでヒヨ鳥の食害を受けてしまった春・初夏キャベツも見事復活を遂げ、広い葉の中央に大きな球を巻くことが出来た。当会の栽培は肥効ではなく「地力」を重視しているため、少々のことには屈することなく無事リカバリーを果たした。自然の持つ生命力の強さに感謝である。もっとも、栽培上私の作業も大きく貢献したことを付け加えておく。(小心な耕人)
春の一番採りキャベツは昨年10月の定植から始まり、その後年内に2回、3種類のキャベツ苗の定植を行った。晩秋から初冬にかけ、エルニーニョかラニーニャか難しいことはわからないが、とにかく暖かい日が続き、気持ち良く飛び回るモンシロチョウが先日定植したばかりのキャベツ苗の小さな葉の裏に産卵を繰り返す。ひと冬をかけてさなぎに成長した蝶は一斉に羽化し、すぐにキャベツの葉裏に卵を産み付けてゆく。春の風に促され、大量の蝶がキャベツ畑の上空を飛び回り、制空権は完全に蝶に制圧された。道行く人が足を止めて見入る姿を目にするも、そんな時には耕人は出来るだけ距離を取り、近づかぬよう努める。それでも話しかけられた時には、「薬を使わないと大変ですね。」とほとんどの人が口にする。「その乱舞する蝶の下には大きくて立派なキャベツが育っている」という事実を見ることはなく。
3月下旬より収穫が始まった春キャベツは葉のちぢれが特徴で、すこぶる柔らかく味は美味。それが終わると初夏キャベツ、そして夏キャベツへと役者が変わる。秋から早春までに5回に分けて播種を行い生育に適した畑へ定植し、4カ月の管理作業、そして収穫作業と慌ただしく時は流れる。同じくして小松菜も栽培、外葉が大切な小松菜はネットでコナガ(害虫)から守られて育つ。
5月13日、赤玉ねぎの生育状況の確認に行く。地上部の葉はまだ元気よく成長を続け、収穫の時期はあと僅かとなった。手で黒マルチを押しながら地中の球を調べていると、中には収穫できるほどの大きさとなった赤玉ねぎに出くわす。それを一個一個引き抜くと、ルビー色をした大きな赤玉ねぎが地中から顔を出し、太陽の光を浴びて輝く。ついつい抜き過ぎたコンテナ2杯分の赤玉ねぎはトラックの荷台に積み込まれ、販売所へと旅立つ。明日の販売にとお客様が喜んで下さる姿を自分勝手に想像し、幸せな今季の赤玉ねぎの初収穫となった。その後もまた2,3回拾い採りをし、地上部の葉の色が褪せた時に一気に収穫となる。収穫後に地干しをし、少し乾いたところで軽く掃除をしてからコンテナに詰め、冷蔵庫内で休眠をさせる。昨年9月下旬に播種をした玉ねぎの小苗は秋を越し、そして冬に入る直前に苗場から栽培地へ定植、厳しい厳冬期を迎えて春一番一気に成長を始め、初夏の香りのする晴天の日に収穫の運びとなる。
収穫・販売を家人に告げる。家人はその日の内に手には赤玉ねぎの入ったエコバッグを下げ帰宅、夜にはオニオンサラダが食卓に上がる。薄くスライスしたオニオンを器に盛り、上にチーズと花かつおをあしらい、ポン酢やしょうゆ、ドレッシングでいただく。耕人は、見つからぬようそっと器の隅にマヨネーズを絞り出す。 本年、栽培した品種はタキイ種苗のケル玉ルビー。従来の玉ねぎよりアントシアニンを豊富に含み、色、形共に良く、後はどれぐらい保存できるかが課題となる。予想以上の出来に胸躍る春であった。
初夏の瑞々しい生野菜にレタスがある。長年、栽培を休止していたが、本年は都合により復活することとなった。3月上旬、ゴマ粒よりもっと小さな種を200穴のトレイに、この太い指で一粒ずつ落としてゆく。苗は育ち、事前に用意をしておいた地の黒マルチを張った畝に30cm間隔で苗を植える。黒マルチを張るのは、防草、防腐のためで、この時期は雑草が異常に伸びるため放っておけばレタスの姿は何処へ、となる。
また、初夏からの高温多湿はレタスにとって最悪な季節である。強い雨や強い日差しは結球したレタスの中を蒸しかえらせ、それが腐敗の原因となる。雨が土を跳ね上げ、根元からの腐りも起こる。天候による暑さはどうしようもないが、マルチを張ることによって根元からの腐敗は何とか回避できる。秋冬の栽培に比べ初夏のレタス栽培は難しくはあるが、汗が額を伝う季節に冷えた夏野菜と共にいただくレタスはとても美味しく、まさに天からの贈り物と言える。栽培に利用したマルチはエコな農を考え、手間ではあるが次の栽培にも利用する。あと少しで結球レタスは姿を消し、続いてリーフレタスが収穫を迎える。
6月上旬、赤玉ねぎは収穫を終え、隣の畝ではきゅうりが育つ。すでに地上から80cmを越え、あと僅かで収穫の日々を迎える。山の農場では、完全な露地栽培で長年5月下旬に播種を行い、9月までの栽培を行ってきたが、本年は都合により5月下旬に定植をし、6月中旬からの収穫へと作業を進める。栽培第2弾は4月1日に播種を行い、第1弾の先輩きゅうりの隣で、今にも追い着きそうな勢いでツルを伸ばす。そしてラストの第3弾は6月上旬に播種、最盛期は8月上旬からの猛暑の中での収穫作業となる。栽培第一弾は張り巡らせたネットにツルがヘビのように絡みつき上って行く。作業の一つに下部三段までの芽はすべて取り、本ツルの成長をより強靭なツルへと作っていく。大空へ向かって伸びるツルを専用のホッチキスでネットに止め、風のいたずらから守る。
春から夏への結球野菜や葉物の栽培に使用する肥料は繊細な施し方を要する。黒々と大きく育った作物は腐りやすくなるため、少し色が浅いくらいが健康に育つ。しかし、晩秋から厳冬期の栽培法はまた違ってくる。これから先、葉菜類は畑から姿を消してゆく。
ここで大失敗の話を一つ。中国野菜の代表ともいえるチンゲン菜を3月初旬より月2回のペースで播種を行った。この種類は播種期を守ることが肝心で、何事にもなめてかかり軽率な行動をとる耕人は、200穴のトレイに播種、育苗し畑に定植と作業を進めた。その結果、春の気温と蝶々の舞に誘われチンゲン菜は美しく花を咲かせてしまった。これは播く時期が少々早く、温度が低すぎたためと考えられる。後悔先に立たず、播種期の気温と、時期を守っていれば800株のチンゲン菜は全て廃棄とはならなかったであろうか。後日、播種をし育苗をしたチンゲン菜に夢を託す。
山の畑では、夏ゴボウが力強く育つ。美しく大きく育つ姿を目の前にし、これからの作業となる苛酷な真夏のごぼう掘りが頭をよぎる。
5月、ニンニクの収穫が始まる。腰を中断に構え力強く引き抜くが、晴天続きで土が固く締まり茎から先がちぎれ、肝心の球がついて来ない。人生思い通りには簡単に進まず、農業人生に於いてもまさに同じ苦汁を味わう。仕方がないので一球ずつクワで掘り上げることにして半日をかけて掘り、上部の葉と土付きの根をハサミで切り取り、コンテナへ入れて運ぶ。それを山の倉庫で陰干しし、皮がカラカラになれば雪の女王が住む冷蔵庫の中へ。大量に収穫したニンニクはこれから一年をかけて出荷して行く。
前回紹介させていただいた山芋も無事植え付けることが出来た。人間、順調に事が進むと変に欲が出てそれを一心に追い求める。予定をはるかに超えた種芋を畑へと植え付ける。後の管理は誰が行うのかも考えず…。何十年も繰り返し栽培を行ってきた里芋も地上に淡い緑の芽を出した。これから晩秋までの長い月日に向けスタートが切られた。
5月29日 梅雨入り宣言がラジオから聞こえボリュームを上げて聞き入る。農は天候次第で最悪な事態にもなる。まだ欲を出して植えてしまった山芋栽培のネットも張っていない。あれもこれもないないだらけの農場である。雨空に変わったため、倉庫の軒下で種を落とす。その後、締め切りが迫った通信を書き始める。締め切りはあと2日、まだ一行たりとも紙の上のペンは走っていない。一週間あれば漱石ばりの文が書けるのだがなどとくだらないことばかりが浮かんでは消え、を繰り返す。作業日誌を見返し、一行一行書き進める。時間がないという事で今回もまた駄文となってしまった。どうぞお許しを。
通信を書く農場も間もなく暗闇に包まれる。静まり返った農場の部屋で聞こえてくるのは子イタチの足音だけ。そして恐ろしき赤ペン先生の「原稿まだ?」という催促の声の幻聴。

多忙な農作業の日々でも一向に体重の落ちない耕人より